Japan site is from here English site is from here English site is from here

Top
真葛焼 宮川香斎造 即中斎御筆金彩玉の絵飾皿(十二代尋牛斎書付)(共箱)
期間限定35%OFF!
¥24,700
(税込 ¥27,170)
通常価格 ¥38,000 (税込 ¥41,800)
状態よい
素材磁器
フチの金彩に少し剥げがあります。
その他には問題はなく、全体的には綺麗な状態です。

商品番号:7176538

サイズ(cm)

サイズ 口径 高台径 高さ 長さ
    9.8 2.9   18.5  
この商品へ質問する
ログインしている方のみご質問が可能です。
会員登録されている方は、ログインを行ってください。
まだ登録されていない方は、こちらをクリックしてください。
表千家
 千利休を祖とし、二代千少菴を経て三代千宗旦の三男江岑宗左からはじまる。不審菴ともいい歴代の名乗りは宗左。
●四代 江岑宗左 1613~1672
 名は右馬之允(うめのすけ)といい茶名ははじめ宗受のち宗左。
 寛永十九年(1642)紀州徳川家に仕え、その際藩主から系譜や由緒書等を微されたため千阿弥を祖とする千家系譜が成立。
 好みの道具としては、唐銅鳳凰風炉・大朱手桶・三木町棚がある。
 寛文十二年に亡くなる。
●五代 随流斎良休 1650~1691
 幼名源三郎。宗旦の娘のくれと久田家二代宗利との間に生まれ、寛文のはじめ(1661)ころ表千家に迎えられた。
 はじめ宗巴のち良休宗左と称し、随流斎の号は大徳寺一渓宗什から授与された。好みものには蔦茶桶が有名。
 実家久田家から兄宗全の子を養子に迎え、元禄四年四十二歳で亡くなった。
 
●六代 覚々斎原叟 1678~1730
 幼名勘太郎、久田宗全の子。
 十二歳の頃随流斎の養子となり宗員の名で修行した。十四歳のころ養父に死別して六代を継ぎ宗左を名乗り、流芳軒と号した。別号の原叟は没後の追号。
 亨保八年江戸に上ったおり将軍吉宗から唐津の茶碗を与えられた。桑原茶碗という。
 随流斎の三女である妻の秋との間に如心斎・宗乾・一燈の三子があり如心斎は七代を継ぎ、宗乾・一燈は裏千家の養子に入り七代最々斎・八代又玄斎となった。
 好みの茶道具は多く桐木地三重棚、菊桐蒔絵雪吹大小、ぶりぶり香合、松の木四方盆、手付置籠、少阿弥陀堂釜、網絵懐石家具一式などが有名。茶室の好みには原叟床四畳半、枡床四畳半などがある。
●七代 如心斎天然 1705~1751
 幼名与太郎のち宗巴、宗員。六代覚々斎の長男。
 二十六歳で家元を継承、如心斎の号は紀州候から受け丁々軒とも号した。また天然の号を大徳寺の大龍宗丈から受け、椿斎の号ある。
 紀州徳川家の庇護および三井八郎兵衛の経済的援助を受けた。
 如心斎は大徳寺の無学宗衍・大龍宗丈、弟の裏千家八代又玄斎、塗師三代中村宗哲らと七事式を制定し、これに適した八畳床付の花月楼を好んだ。
 元文四年(1739)利休百五十回忌に当たり利休堂を建立。
●八代 啐啄斎件翁 1744~1808
 幼名与太郎。七代如心斎の長男で八歳のとき死別、川上不白らの援助を受け叔父の裏千家八代又玄斎の指導を仰ぎ茶湯の修行に励んだ。
 十四歳のとき宗旦百回忌を迎えそれを機会に宗左を名乗り八代家元を継承。
 天明八年(1788)大火により茶道具以外全てを焼失。
 好みの茶道具としては不審庵西の坪の松の大木で好んだスリ漆丸香合、鉋目敷板、松の木溜塗丸卓、鉄道安風炉、蔦平茶器などがある。
 文化元年還暦を迎え隠居し宗旦を名乗りそれを記念して干支にちなみ、啄元弥介に赤黒の甲子茶碗を作らせた。
● 九代 了々斎曠叔 1775~1825
幼名貞蔵。久田家六代宗渓の長男。
 八代啐啄斎の長男と長女は早世しあとに三人の娘がいたが、その上の娘沢の婿養子として久田家から迎えられた。
 三十四歳で九代を継ぎ紀州徳川家に仕え、和歌山西浜御殿のうちに実際庵の三畳台目の席を好んだ。
 また文政二年春、楽家十代旦入とともに出仕し製陶にたずさわり、文化十三年(1816)に大徳寺剛堂宗健から好雪軒の号を受けた。表千家の総門をなす武家門は文政五年四月、紀州徳川家の治宝を迎えた節に建てたものと伝えられる。
 好みの茶道具に青漆爪紅長板、真塗小手桶、金入灰器、朱黒網絵懐石家具などがある。
● 十代 吸江斎祥翁 1818~1860
九代了々斎には男子があったが早世、また弟の皓々斎は久田家に留まり
啐啄斎の娘きとを妻としていたのでその子、達蔵を迎え十代家元とした。九歳であったため後見に住山楊甫が当たり十歳のとき紀州家に出仕した。
 天保七年(1836)徳川治宝は吸江斎に台子真点前の皆伝を授けた。
 天保十年利休二百五十回忌を務め追善茶会を催し、弘化二年(1845)大徳寺拙叟宗益より安祥軒の軒号を与えられた。のち、如心斎百回忌・宗旦二百年忌などを営んだ。
 好みの茶道具には溜二重棚、手付桐煙草盆、玉の絵棗などがある。
●十一代 碌々斎瑞翁 1837~1910
 幼名与太郎のち宗員、吸江斎没後宗左を名乗った。十代吸江斎の長男。
 二十余歳で十一代を継いだが間もなく明治維新を迎え江岑以来の紀州徳川家の出仕のこともやみ、家元にとって苦難の時代を迎えたが、明治十年を過ぎると茶道界も近代の茶道としての第一歩を踏み出した。
 明治十三年北野天満宮に献茶奉仕、栂尾高山寺で明恵上人六百五十回忌に際し供茶をした。同二十三年には利休三百年忌、また随流斎二百年忌の追悼茶事を行った。
 明治二十五年隠居して宗旦と称す。同三十九年表門を除く家屋の全てを焼失したが同四十二年には残月亭のみ復興した。
 好みの茶道具では既望棗、ふくべ釜がある。
●十二代 惺斎敬翁 1863~1937
 十一代碌々斎の長男で、碌々斎が早く隠居したため十二代を継承したが重要な行事は碌々斎が主となった。
 碌々斎の没後は表千家復興のため努力し大正二年(1913)に不審庵の再興、同十年には松風楼を増築した。
 好みの茶道具は歴代の中で最も多く、その多くは千家十職によるもの。また鎌倉彫、萩焼、膳所焼、薩摩焼なども多い。
 惺斎の嫡男与太郎は昭和十年に宗員号を大徳寺の円山伝衣から受け、弟の覚次郎とともに、病気がちであった惺斎を助けるはずだったが父に先立って四十歳で亡くなった。
●十三代 即中斎無盡 1901~1979
 十二代惺斎の次男。長兄宗員の早逝により昭和十二年宗左を襲名。
 昭和二十四年財団法人不審庵を設立、同五十年には表千家同門会を社団法人とし機関誌「同門」を発行。
 昭和五十四年七十九歳で亡くなる。
●十四代 而妙斎宗左 1938~
 名は岑一郎、十三代即中斎の長男。
 中央大学卒業。昭和五十五年十四代家元を襲名した。
宮川香斎(みやがわ こうさい)
陶芸家。江戸時代より続く京焼の名門。
宮川家はもともとは滋賀湖北坂田郡宮川村の出で、宮川小兵衛政一の代に京都に移り住み、その長男である治兵衛政重が五条坂で茶碗屋を始めた。
・初代 宮川香斎(1819~1865)
 宮川治兵衛春房の長男として生まれる。号は香斎・赤こん。
嘉永年間(1848~54)の始め頃に「香斎」を名乗り、以降香斎の名が
継承される。
・二代 (1846~1922)
初代宮川香斎の養子。本名熊二郎。号は香斎、善翁、治兵衛(隠居後)。
真葛ヶ原に開窯していた宮川長造に師事し、寅之助(初代宮川香山)達と作陶する。
1911年に西本願寺の親鸞聖人六百五十年大遠忌で、一文字呉器写茶碗の御用命を頂き作陶。1913年に長男・周造に家督を譲り隠居した後治兵衛を名乗る。
・三代 (1894~1919)
二代宮川香斎の長男。本名周造、号は香斎、光誉。
1913年に三代宮川香斎を襲名。
・四代(初代 真葛香斎)(1897~1987)
三代宮川香斎の次男。本名金吾、号は香斎・永誉・治平(隠居後)。
1909年に京都徒弟伝習所轆轤科に入所し、卒業後は家業に従事した。1913年に四代宮川香斎を襲名。1915年頃には北大路魯山人が作陶の手ほどきを受けに陶房を訪れた。
1929年に久田家十一代無適斎宗也に入門し、以後茶道具の制作に専念する。1934年、無適斎宗也より「真葛焼」の箱書を授かり「真葛香斎」を名乗る。
1972年、婿養子・三喜重に家督を譲り隠居し、治平と名乗る。
・五代(二代 真葛香斎)(1922〜)
東京生まれ。本名三喜重。旧姓杉本。号は香斎・治平(隠居後)。
1946年、四代香斎の長女と結婚し宮川家に婿入りし、1972年に五代宮川香斎および二代真葛香斎を襲名。
表千家13代即中斎宗左より「真葛」の印を授かる。
2002年、養子・和男に家督を譲り隠居、「治平」と名乗る。
久田家十一代無適斎宗也の死後、十二代尋牛斎宗也の指導のもと茶陶を制作した。
・六代(三代 真葛香斎)(1944〜)
京都生まれ。五代宮川香斎の養子。本名和男、号は香斎。
東京造形大学美術学部彫刻専攻を卒業した後、京都の窯元で作陶を始める。1976年に真葛窯に入り五代宮川香斎の補佐を務め25年間五代の元で技術を磨く。2002年に六代宮川香斎(三代真葛香斎)を襲名し、大徳寺僧堂龍翔寺嶺雲室・高田明浦より「真葛」の印を授かる。
現在は真葛の当代として息子の真一氏とともに、伝統を生かし茶道具を主に製作している。国内各地で多くの個展を開催している。