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大萱窯 加藤弥右衛門造 赤織部平茶碗(裏千家十五代 鵬雲斎書付)(共箱)
期間限定35%OFF!
¥130,000
(税込 ¥143,000)
通常価格 ¥200,000 (税込 ¥220,000)
状態非常によい
素材陶器
状態は大変良いです。

商品番号:7113369

サイズ(cm)

サイズ 口径 高台径 高さ 長さ
口径(最大) 15.5 4.9 6.1      
口径(最小) 14.6          
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裏千家
 千利休を祖とし、二代千少庵を経て三代千宗旦の四男仙叟宗室からはじまる。三千家の一つで今日庵ともいう。
 歴代の名乗りは宗室。
●四代 仙叟宗室 1622~1697
 幼名長吉郎、宗旦の四男。
 はじめ医師を志し野間玄琢について医学を学ぶ、玄室と称した。この名は仙叟以後家元を継承する前か、隠居後に用いられるようになる。
 加賀藩三代藩主前田利常に茶道茶具奉行として仕え、利常の没後五代藩主綱紀にも仕えた。その間、陶工長左衛門に大樋焼の窯を築かせ、また宮崎寒雉に茶湯釜をつくらせた。
 好みの茶道具は旅枕、竹花入、掛絡香合、雁香合、塩屋釜、柏釜、夕顔平水指、大樋焼平水指、望月棗、河太郎棗の他、数多い。
● 五代 不休斎常叟 1673~1704
幼名与三郎のち宗安。四代仙叟の長男。
 加賀藩の奉行となり、のち伊予松山藩主久松家の茶道奉行として伊予にも出仕。宝永元年三十二歳で亡くなった。
 好みの茶道具に中丸銘々盆、甲赤茶器、蔓付茶器、引出付茶箱。阿部藤兵衛の屋敷内金龍水の井戸を取り入れた二畳の茶席を好んだ。
●六代 六閑斎泰叟 1694~1726
 幼名政吉郎のち宗安。五代不休斎の長男。
 十一歳で父を亡くし六代を継承、表千家の六代覚々斎から茶道の修行を受けた。また、謡曲・狂言なども巧みであった。
 亨保十一年三十三歳で松山藩主久松家の江戸屋敷に没し、品川東海寺にも葬られた。
 好みの茶道具は又隠透木釜、鏡釜、梅の釜、瓢釜など。
 なお二十斎ころ妻帯、一子をもうけたが間もなく死亡、妹は剃髪して北野の尼寺西方寺にはいり祖仙尼と称して同寺の第三十世住職となった。
●七代 最々斎竺叟 1709~1723
 幼名政之助のち宗乾。六代六閑斎に子がいなかったため表千家から養子として迎えられた。表千家六代覚々斎の次男、七代如心斎の弟にあたる。
 加賀藩・松山藩に茶道奉行として出仕。亨保十八年二十五歳で没。
 好みの茶道具に寒雲棗、内朱四方盆、赤楽鶴香合、一閑籐組平炭斗などがある。
●八代 又玄斎一燈 1719~1771
 幼名十一郎。
 七代最々斎の早逝により、表千家から養子となった。六代覚々斎の三男、七代最々斎の弟。
 加賀藩・松山藩に茶道奉行として出仕。大徳寺玉林院の大龍宗丈に参禅、又玄斎の号を与えられた。今日庵の茶席を修復するとともに、兄如心斎と大徳寺僧無学宗衍・大龍宗丈の協力を得て、七事式を制定した。
 明和八年五十三歳で没。好みの茶道具に夕顔台子、銀杏台子、焼桐棚、壺々大棗、老松茶器、飴釉手付水指、竹根水指、老松彫真鍮皆具、蒲団釜、夕顔釜のほか数が多い。
●九代 不見斎石翁 1746~1801
幼名十一郎のち玄室。寒雲の号もある。八代又玄斎の長男。天明八年京都大火により両千家とも被災したが直ちに復興にかかり利休二百回忌追善茶会を営んだ。
 加賀藩・松山藩に茶道奉行として出仕。享和元年五十六歳で没。長男認得斎のほか、次男に宗玄、武者小路千家八代一啜斎の養子になった九代好々斎仁翁となった三男宗什がいる。
 好みの茶道具には松ノ木香合・八角香合・太鼓銅蓋置・桐菊絵煙草盆などがある。
●十代 認得斎柏叟 1770~1826
 幼名栄三郎。九代不見斎の長男。
 三十二歳で家元を継承。加賀藩・松山藩に茶道奉行として出仕。
 文政九年五十七歳で亡くなる。好み茶道具に真鍮夕顔彫切合風炉、夕顔棗、折撓棗、一閑三日月香合、扇面香合などがある。
● 十一代 玄々斎精中 1801~1877
三河国(愛知県)奥殿領主松平縫殿頭乗友の子として生まれ、幼名は千代松。
 十歳で裏千家に婿養子として迎えられ、成人して十代認得斎の長女萬地を妻とした。萬地は茶湯をよくしたが三十六歳で没したので妹の照を娶った。
 茶箱点をはじめ立礼式、大炉の扱い、和巾点など新しい点前を考案した。
 後妻との間に一如斎があったが十七歳で夭折。玄々斎は明治十年六十八歳で亡くなった。
 好みの茶道具は多く御神酒筒花入、鶴首籠花入、田子浦香合、筆柿香合、月日貝香合、唐うた大棗、羽衣棗、徳風棗、兎耳水指、浦千鳥水指のほか茶道具全般にわたっている。
●十二代 又玅斎直叟 1852~1917
 京都の角倉家に生まれ十八歳で婿養子として裏千家に入り、玄室と称す。妻は玄々斎の長女猶鹿。
 明治四年家元を継承したが同十八年三十四歳で家督を長男駒吉に譲って山崎妙喜庵に移住し茶道の振興に務めた。大正六年六十六歳で堺で没。号は幽軒。
 好みの茶道具に舟香合、住吉釜、老松棗、文箱煙草盆などがある。
●十三代 圓能斎鉄中 1872~1924
 幼名駒吉、対流軒と号す。十二代又玅斎の長男、十四歳で家元を継承。
 三田藩主九鬼家親族の綱子と結婚、一時東京麻布我善坊に住み在京の玄々斎門下田中宗トとともに流儀の発展に尽力した。
 圓能斎の号は北白川宮能久親王の一字を賜わってのもの、また小松宮彰仁親王から鉄中の号を賜わった。
 考案した点前に三友之式、濃茶各服点、また流し点、大円真・草の復興がある。
 大正十三年五十三歳で没。好みの茶道具に国師丸釜、十二月棗、銀三宝蓋置をはじめ多数ある。
●十四代 無限斎碩叟 1893~1964
 幼名政之輔のち宗叔。十三代圓能斎の長男。
 大正六年仙台伊藤家の嘉代子と結婚。結婚を機に九鬼隆一より拝受した淡々斎に改称。碩叟と号し梅糸庵とも称したが、大徳寺円山伝衣について得度し無限斎の号も授与された。
 流儀統一のため淡交会を結成し海外普及と文化交流のために国際茶道文化協会を設立、紺綬褒賞・紫綬褒賞を受賞。また、茶人としては初の叙勲に輝き勲三等旭日中綬章を拝受した。ブラジルの文化勲章も受けている。
 昭和三十九年北海道の旅先で客死、享年七十一歳。正四位を贈られた。
 代表的な好みの茶道具に渦蒔絵竹花入、珠光青磁花入、羽衣香合、梅月棗、海松浪蒔絵炉縁などがある。
●十五代 鵬雲斎汎叟 1923~
 名は政興、十四代無限斎の長男。
 同志社大学法学部卒業、ハワイ大学修学、韓国・中央大学大学院博士課程修了。
 昭和二十四年大徳寺後藤瑞巌につき参禅修道して得度、鵬雲斎玄秀興居士、また妙心寺梶浦逸外より虚心の斎号を受けた。昭和二十五年若宗匠の格式を得、同三十年東京塚本本家の登三子と結婚。同三十九年家元を継承。
 平成十四年に代を譲って玄室を名乗って現在に至る。
 紫綬褒賞、藍綬褒賞、文化功労賞、文化勲章を受賞。また西ドイツ、ブラジルなどからの文化勲章、フランスからレジオン・ドヌール勲章オフィシェを受賞した。
 好みの茶道具には遠山釜、鶴雲釜、行雲棚、四季草花棗、松島茶碗、南鐐皆具の他数多い。
●十六代 坐忘斎宗室 1956~
 名は政之、十五代鵬雲斎の長男。
 同志社大学卒業。大徳寺中村祖順に参禅得度し坐忘斎の斎号を受けのちには妙心寺盛永宗興に参じた。
 平成十四年に十六代家元を襲名。
●井口海仙 1899~1982
 名は三郎、宗含と号す。
 裏千家十三代円能斎の三男、淡交社の社長として茶道具の出版に貢献。
 また兄である裏千家十四代淡々斎の補佐役として手腕を発揮した。
瀬戸焼
瀬戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。日本六古窯の一つ。瀬戸エリアで焼きものが作られ始めたのは古墳時代までさかのぼり、中世期に釉薬を施した陶器を生産していたのは瀬戸のみであった。  
 鎌倉時代に加藤四郎景正が、宋から施釉陶器技法を伝えたのが瀬戸焼の創始といわれ、灰釉・鉄釉を使った陶器生産が始まる。室町時代には日用品が多く作られていたが、桃山時代からは茶の湯の隆盛に伴って茶器が多く生産された。
 鎌倉期の灰釉・鉄釉に加えて、 黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部・鉄赤の釉薬が用いられる。
加藤弥右衛門 かとうやえもん(1942年〜)
本名、輝夫。岐阜県笠原町生まれ。
陶芸家加藤十右衛門の三男。
小谷陶磁器研究所で学んだ後、父・加藤十右衛門に師事。
十右衛門の死後八坂窯に帰郷し、大萱窯(おおがやかま)を開いた。伝統的な技法を応用して、茶道具・懐石道具・花器を中心に作陶している。
織部焼(おりべやき)
 織部焼は16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて現在の岐阜県東濃地方で生まれた焼物で、美濃焼の一種。
 千利休の弟子であった大名茶人・古田織部が好みの茶器を焼かせたのが始まりで、織部好みの斬新で奇抜な形や文様の茶器などが多く作られた。一般的に歪んで多角形のものが多く当時としてはとても奇抜な焼物であった。
 成形には型が多く用いられ、色彩は黒、濃緑、赤などが多い。釉薬の色になどにより、織部黒または黒織部、青織部、赤織部、志野織部などに分類される。織部黒・黒織部は茶碗が殆どで、それ以外の織部は主に食器類が作られている。